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1947년 요츠야구,우시고메구,요도바시구를 합쳐 만들었다.  
 
1947년 요츠야구,우시고메구,요도바시구를 합쳐 만들었다.  
 
== 신주쿠구 소속의 정(町) ==
 
== 신주쿠구 소속의 정(町) ==
|未実施
 
|
 
|
 
|-
 
|}
 
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|title = 若松町特別出張所管内(8町丁)
 
|titlestyle = text-align:center;
 
|border    = solid
 
}}
 
{|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small"
 
|-
 
!style="width:14%;|町名
 
!style="width:12%;|町名の読み
 
!style="width:12%;|住居表示実施年月日
 
!style="width:32%;|住居表示実施前の町名等
 
!style="width:18%;|備考
 
 
|-
 
|[[若松町 (新宿区)|'''若松町''']]
 
|わかまつちょう
 
|1982.7.5
 
|若松町(大部分)、原町3(一部)、戸山町、余丁町、市谷河田町(以上道路のみ)
 
|
 
|-
 
|'''[[余丁町]]'''
 
|よちょうまち
 
|1986.11.4
 
|余丁町(大部分)、東大久保2、市谷冨久町、市谷台町(以上一部)
 
 
|-
 
|'''[[富久町]]'''
 
|とみひさちょう
 
|1983.8.1
 
|市谷冨久町(大部分)、市谷台町(一部)、余丁町(一部)、花園町、四谷4、愛住町(以上道路のみ)
 
|
 
|-
 
|'''[[市谷台町]]'''
 
|いちがやだいまち
 
|2002.4.1
 
|市谷台町(大部分)、市谷冨久町(道路のみ)
 
|
 
|-
 
|[[住吉町 (新宿区)|'''住吉町''']]
 
|すみよしちょう
 
|1986.11.4
 
|住吉町(大部分)、市谷河田町、余丁町、市谷冨久町、市谷台町、愛住町、舟町、片町(以上道路のみ)
 
|
 
|-
 
|'''[[河田町]]'''
 
|かわだちょう
 
|1986.2.24
 
|市谷河田町(大部分)、原町3(一部)、住吉町(一部)、若松町、市谷仲之町、余丁町(以上道路のみ)
 
|
 
|-
 
|[[戸山 (新宿区)|'''戸山一丁目''']]
 
| rowspan="2"|とやま
 
|1981.6.1
 
|戸山町(大部分)、諏訪町(一部)、西大久保4(一部)、東大久保2、若松町、喜久井町(以上道路のみ)
 
|
 
|-
 
|[[戸山 (新宿区)|'''戸山二丁目''']]
 
|1981.6.1
 
|戸山町(大部分)、諏訪町(一部)、西大久保4(一部)、東大久保2、若松町、喜久井町(以上道路のみ)
 
|
 
|-
 
|}
 
{|class="wikitable" style="width:100%"
 
|-
 
| style="width:15%" |霞岳町
 
| style="width:10%" |かすみがおかまち
 
| style="width:10%" |未実施
 
| style="width:40%" |
 
| style="width:25%" |2003年の住居表示実施時に対象外となった区域。信濃町駅前の交番の所在地、及び大京町・南元町の南に接する道路敷
 
|-
 
|}
 
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=== 住居表示と町名保存 ===
 
[[ファイル:Shinjukucity-townmap1.png|thumb|新宿区内における<br />住居表示実施前後の<br />町名町域対照地図]]
 
周辺自治体と同様、新宿区も[[1965年]](昭和40年)に[[住居表示]]の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、[[1970年代]]には[[戦後]]の[[若者文化]]の発信地とも言われていた[[新宿駅]]周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた<ref group="注">今日新宿駅周辺で唯一新宿の名前がつかない[[歌舞伎町]]は[[1948年]](昭和23年)に誕生した比較的新しい地名。当時新宿区は戦災[[復興]]のため大衆文化の発信拠点を区内に作ろうと計画していた。その目玉として[[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]にある[[歌舞伎座]]の誘致を目指し、その「受け皿地区としてふさわしい名称」を理由に当時の[[東京都知事]][[安井誠一郎]]が[[歌舞伎町]]と命名した。その後新宿地区は確かに[[映画]]・[[講談]]・[[落語]]・[[演劇]]・ジャズ喫茶といった大衆文化を育む一大拠点へと成長したが、歌舞伎座の誘致そのものは失敗に終わった。歌舞伎町という名称が[[歌舞伎]]と直接つながりがあるわけではないため、行政主導の安易な町名変更だったとの声も聞かれた。</ref>。
 
 
新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった[[方角地名|方角町名]]を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、[[1980年代]]には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。
 
 
これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、[[千代田区]]([[神田 (千代田区)|神田]]を冠する町・[[番町]]・[[麹町]])と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は[[2018年]](平成30年)現在76.01パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、[[2002年]](平成14年)に市谷台町を、[[2003年]](平成15年)には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。
 
=== 区内の町名 ===
 
新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 - 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。[[江戸時代]]の[[武家屋敷]]や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる([[2009年]](平成21年)7月末時点における住居表示未実施の町名は'''太字'''で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。
 
 
{{columns-list|colwidth=12em|
 
* '''[[愛住町]]'''
 
* '''[[赤城下町]]'''
 
* [[赤城元町]]
 
* [[揚場町]]
 
* '''[[荒木町 (新宿区)|荒木町]]'''
 
* [[市谷加賀町]]一丁目 - 二丁目
 
* [[市谷甲良町]]
 
* '''[[市谷砂土原町]]一丁目''' - '''三丁目'''
 
* '''[[市谷左内町]]'''
 
* [[市谷台町]]
 
* '''[[市谷鷹匠町]]'''
 
* '''[[市谷田町]]一丁目''' - '''三丁目'''
 
* '''[[市谷長延寺町]]'''
 
* [[市谷仲之町]]
 
* '''[[市谷八幡町]]'''
 
* '''[[市谷船河原町]]'''
 
* [[市谷本村町]]
 
* '''[[市谷薬王寺町]]'''
 
* '''[[市谷柳町]]'''
 
* [[市谷山伏町]]
 
* '''[[岩戸町 (新宿区)|岩戸町]]'''
 
* '''[[榎町 (新宿区)|榎町]]'''
 
* [[大久保 (新宿区)|大久保]]一丁目 - 三丁目
 
* '''[[改代町]]'''
 
* [[神楽河岸]]
 
* '''[[神楽坂]]一丁目''' - '''六丁目'''
 
* '''霞岳町'''(霞ヶ丘町成立後の残余)
 
* [[霞ヶ丘町]]
 
* [[片町 (新宿区)|片町]]
 
* [[歌舞伎町]]一丁目 - 二丁目
 
* [[上落合 (新宿区)|上落合]]一丁目 - 三丁目
 
* [[河田町]]
 
* '''[[喜久井町]]'''
 
* [[北新宿]]一丁目 - 四丁目
 
* '''[[北町 (新宿区)|北町]]'''
 
* [[北山伏町]]
 
* [[細工町 (新宿区)|細工町]]
 
* '''[[左門町]]'''
 
* '''[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]'''
 
* [[下落合]]一丁目 - 四丁目
 
* [[下宮比町]]
 
* [[白銀町 (新宿区)|白銀町]]
 
* [[新小川町]]
 
* [[新宿]]一丁目 - 七丁目
 
** ([[新宿二丁目]]も参照)
 
* [[水道町 (新宿区)|水道町]]
 
* '''[[須賀町 (新宿区)|須賀町]]'''
 
* [[住吉町 (新宿区)|住吉町]]
 
* '''[[大京町]]'''
 
* [[高田馬場]]一丁目 - 四丁目
 
* '''[[箪笥町]]'''
 
* '''[[築地町 (新宿区)|築地町]]'''
 
* [[津久戸町]]
 
* [[筑土八幡町]]
 
* '''[[天神町 (新宿区)|天神町]]'''
 
* '''[[戸塚 (新宿区)|戸塚町]]一丁目'''
 
* [[富久町]]
 
* [[戸山 (新宿区)|戸山]]一丁目 - 三丁目
 
* '''[[内藤町]]'''
 
* [[中井 (新宿区)|中井]]一丁目 - 二丁目
 
* [[中落合 (新宿区)|中落合]]一丁目 - 四丁目
 
* '''[[中里町 (新宿区)|中里町]]'''
 
* '''[[中町 (新宿区)|中町]]'''
 
* '''[[納戸町]]'''
 
* [[西落合 (新宿区)|西落合]]一丁目 - 四丁目
 
* [[西五軒町]]
 
* [[西新宿]]一丁目 - 八丁目
 
* [[二十騎町]]
 
* [[西早稲田]]一丁目 - 三丁目
 
* '''[[馬場下町]]'''
 
* '''[[払方町]]'''
 
* '''[[原町 (新宿区)|原町]]一丁目''' - '''三丁目'''
 
* '''[[東榎町]]'''
 
* [[東五軒町]]
 
* [[百人町]]一丁目 - 四丁目
 
* '''[[袋町 (新宿区)|袋町]]'''
 
* '''[[舟町 (新宿区)|舟町]]'''
 
* '''[[弁天町 (新宿区)|弁天町]]'''
 
* '''[[南榎町]]'''
 
* '''[[南町 (新宿区)|南町]]'''
 
* '''[[南元町 (新宿区)|南元町]]'''
 
* [[南山伏町]]
 
* '''[[山吹町 (新宿区)|山吹町]]'''
 
* '''[[矢来町]]'''
 
* '''[[横寺町]]'''
 
* [[余丁町]]
 
* '''[[四谷]]一丁目''' - '''四丁目'''
 
* [[四谷坂町]]
 
* [[四谷三栄町]]
 
* [[四谷本塩町]]
 
* [[若葉 (新宿区)|若葉]]一丁目''' - '''三丁目'''
 
* [[若松町 (新宿区)|若松町]]
 
* '''[[若宮町 (新宿区)|若宮町]]'''
 
* '''[[早稲田鶴巻町]]'''
 
* '''[[早稲田町]]'''
 
* '''[[早稲田南町]]'''}}
 
 
=== 消滅した町名 ===
 
新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。
 
 
; 市谷河田町
 
: 現在の河田町のほぼ全域(ただし、河田町コンフォガーデンの南側の2棟(C棟・D棟)とその周辺、原町三丁目に隣接する[[東京女子医科大学]]看護学部の校舎は除く)。当時、若松町(北)・市谷仲之町(東)・市谷台町(南・のち一部が若松町)・余丁町(西)に隣接。[[1986年]](昭和61年)2月24日、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。かつて市谷河田町は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]([[1997年]](平成9年)、港区[[台場 (東京都港区)|台場]]二丁目に移転)や新宿簡易裁判所([[1993年]](平成5年)廃止、[[東京簡易裁判所]]に機能統合)の所在地として知られていた。
 
 
; 市谷冨久町
 
: 現在の富久町のほぼ全域(ただし、東京都立小石川工業高等学校敷地の南東に接するごくわずかな一画と、富久町保育園の北東に接するごくわずかな一画は除く)と、余丁町のごく一部(余丁町児童遊園の西に隣接する一画)。当時、東大久保一丁目 - 番衆町(西)・花園町 - 四谷四丁目 - 愛住町(南)・市谷台町(東・のちに一部が住吉町)・余丁町(北)に隣接。[[1983年]](昭和58年)8月1日の住居表示実施により富久町が誕生し、これにより市谷冨久町のほぼ全域が消滅。残りのごくわずかな区画のうち、善慶寺や東洋美術学校の南側付近の一画は住吉町に、余丁町児童遊園の西に隣接する一画は余丁町として、それぞれ[[1986年]](昭和61年)11月4日に住居表示が実施され市谷冨久町は消滅。ただし、小石川工業高等学校敷地の東に接する道路部分(現市谷台町)はその後も[[2002年]](平成14年)4月1日まで市谷冨久町として存続(なお、市谷冨久町の「冨」は「[[冖部|ワかんむり]]」、富久町の「富」は「[[宀部|ウかんむり]]」)。
 
 
; 柏木
 
: 現在の北新宿一 - 四丁目の全域と、西新宿六 - 八丁目のほぼ全域(ただし、西新宿六丁目のうち、公園通りより西側すべて・北通り沿線・新宿警察署付近一帯を除く。また、西新宿七丁目のうち、小滝橋通りより東側をすべて除き、[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]][[新宿西口駅]]のD5出口付近は含む)。このエリアのうち、西新宿六 - 八丁目のほぼ全域が柏木一丁目、北新宿二丁目のほぼ全域が柏木二丁目、北新宿一丁目のほぼ全域が柏木三丁目、北新宿三丁目のほぼ全域が柏木四丁目、北新宿四丁目のほぼ全域が柏木五丁目だった。当時、淀橋(南西)・角筈二丁目(南)・角筈一丁目(南東)・百人町一 - 三丁目(東)・戸塚町四丁目(東 - 北東)・[[中野区]](西)に隣接。住居表示実施により、[[1970年]](昭和45年)4月に西新宿六丁目が、[[1971年]](昭和46年)1月に西新宿七 - 八丁目と北新宿一 - 四丁目が誕生し、柏木は消滅。今日、新宿区役所柏木特別出張所などにその名を留めている。このほか、児童数減少により新宿区立淀橋第一小学校と第七小学校が統廃合されて[[1997年]](平成9年)に誕生した新小学校の名前は柏木小学校と命名された。なお、一部の資料には、柏木五丁目の一部が現在の[[高田馬場]]三丁目の一部であるとの記載がある。これは柏木五丁目の最北端である小滝橋交差点の道路部分(現高田馬場三丁目)がかつて柏木五丁目に含まれていたことによる。したがって、柏木という町名が消滅したのは、厳密には高田馬場三丁目が誕生した[[1975年]](昭和50年)6月である。
 
 
; 霞岳町
 
: 現在の霞ヶ丘町のほぼ全域(神宮外苑休憩所の一画は除く)。霞岳町も霞ヶ丘町も読み方は「かすみがおかまち」。[[2003年]](平成15年)9月の住居表示実施に伴う町名変更により、霞岳町のほぼ全域が霞ヶ丘町となった。ただし、JR[[信濃町駅]]前の交番一帯のごくわずかな部分だけは住居表示実施の対象外となり(暫定的に)霞岳町のまま残っているため、厳密には地名として消滅していない。
 
 
; 三光町
 
: 現在の[[歌舞伎町]]一丁目と新宿五丁目のそれぞれ一部。おおむね、歌舞伎町一丁目の町域のうち新宿遊歩道公園より東側と、新宿五丁目の町域のうち[[モスバーガー]]新宿五丁目店([[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]沿い)よりも西側エリアが当時の三光町の町域。([[伊勢丹]]別館や[[丸井|OIMEN新宿]]を含む。ただし、新宿六丁目交差点付近の一画は除く。)当時、番衆町(東)・角筈一丁目の飛地と東大久保一丁目(北)・歌舞伎町一丁目(西)・新宿二丁目と三丁目(南)に接していた。[[1978年]](昭和53年)7月、住居表示実施に伴い消滅。三光町は古くは四谷三光町という交差点の名称や、[[東京都電車|都電]]やバスの停留所名ともなっていたことから、小説の舞台として登場するなど長らく親しまれていた。由来は[[花園神社]]の別名「三光院稲荷」から。
 
 
; 十二社(じゅうにそう)
 
: 現在の西新宿二丁目・四丁目の一部。おおむね、[[方南通り]]・公園通り・南通り・[[渋谷区]]本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、[[新宿中央公園]]の東半分、方南通り沿線、新宿区立西新宿小学校 - 角筈区民センター周辺の一画を、それぞれ除く)。当時、角筈三丁目(東 - 南)・淀橋(北)・渋谷区(西)に隣接。[[1970年]](昭和45年)4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、十二社通り(公園通りの西、山手通りの東に並行して敷設)や[[新宿十二社温泉]]などにその名を留めている。由来は[[熊野神社 (新宿区)|熊野神社]]の別名から。
 
 
; 諏訪町
 
: 現在の高田馬場一丁目のほぼ全域(ただし、新宿区立戸塚第二小学校や新宿区役所戸塚特別出張所など[[早稲田通り]]沿線部分すべてと、西武線・JR線の鉄道敷設部分を除く)と、西早稲田二丁目の西側(三井住友建設早稲田寮敷地西端よりも西、印度大使官邸敷地南端よりも南)、戸山三丁目の一部([[2005年]](平成17年)3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と[[学習院女子大学]]敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域)がかつての諏訪町域。当時、西大久保四丁目(南)・戸山町(南)・戸塚町二丁目(東 - 北)・戸塚町三丁目(北 - 西)に隣接。今日、新宿区の公園の名称(諏訪公園・諏訪の森児童公園)・南に接する道路の一般名称(諏訪通り)・諏訪通りと明治通りの交差点の名称(諏訪町)などにその名を留めている。住居表示実施により、[[1975年]](昭和50年)6月に町域の大部分が高田馬場一丁目と西早稲田二丁目に変更、残余のごく狭小な区域は[[1981年]](昭和56年)6月に戸山三丁目21番街区となり、諏訪町は消滅。
 
 
; 高田町
 
: 現在の西早稲田二丁目([[早稲田通り]]・[[諏訪通り (東京都)|諏訪通り]]・[[明治通り (東京都)|明治通り]]で囲まれたエリア)の町域の最東端、穴八幡神社とその周辺一画([[サイゼリヤ]]や馬場下町交番などを含み、小林建設・[[日本キリスト教会]]・[[新日本石油|エネオス]]は含まない)がかつての高田町域。当時、戸塚町一丁目(東 - 北)・戸山町(西 - 南)・馬場下町(南西)に隣接。[[1975年]](昭和50年)6月、住居表示実施に伴い消滅。
 
 
; 角筈(つのはず)
 
: 新宿区発足当初の角筈の町域は、現在の歌舞伎町一丁目のほぼ全域、新宿三丁目の東半分([[新宿駅]]東口周辺)、[[西新宿]]一丁目と三丁目の全域、西新宿二丁目のほぼ全域、西新宿四丁目の一部(歌舞伎町一丁目のうち、新宿遊歩道公園より西はすべて除く。ただし、遊歩道公園の北側入り口付近に接するごくわずかなエリアを含む。新宿三丁目のうち、[[紀伊國屋書店]]新宿本店・新宿[[三越]]ALCOTT店・[[大塚家具]]新宿ショールーム等の東側境界より東はすべて除く。西新宿二丁目のうち、新宿中央公園の西側半分は除く。西新宿四丁目のうち、新宿区立西新宿小学校敷地の北側に接する道路より北はすべて除く)。このエリアのうち、おおむね歌舞伎町一丁目と新宿三丁目が角筈一丁目、西新宿一丁目のうち[[新宿野村ビルディング|新宿野村ビル]]・[[損保ジャパン本社ビル]]・[[新宿センタービル]]を除いたエリアが角筈二丁目、西新宿一丁目の残りと西新宿二 - 四丁目が角筈三丁目である。新宿区発足当初の角筈は、渋谷区(南 - 西)・十二社(西)・淀橋(北西)・柏木一丁目(北)・西大久保一 - 二丁目(北西)・三光町(東)・新宿三丁目(東)・旭町(南)に隣接。[[1948年]](昭和23年)4月1日、[[戦災復興事業]]の一環として角筈一丁目のうち靖国通りより北側が三光町の一部などとともに区画整備され歌舞伎町(当時)として分離。ただし、現在の新宿遊歩道公園北側の一画は歌舞伎町とはならず角筈一丁目として存続したため、以降飛地となった。そののち段階的に住居表示が実施され、[[1970年]](昭和45年)4月に西新宿一 - 四丁目が誕生し、角筈三丁目が消滅。[[1973年]](昭和48年)1月に現在の新宿三丁目が誕生し角筈二丁目が消滅。[[1978年]](昭和53年)7月に歌舞伎町一丁目が誕生し、飛地の角筈一丁目も消滅した。かねてから新宿地区の重心は西へと移動しつつあったが、この角筈の消滅により、新宿駅の所在地は新宿三丁目に、副都心の高層ビル群の所在地は西新宿二丁目となり、新宿地区のこれらの要所の住所と実態とが一致することになった。
 
 
; 戸山町
 
: [[1981年]](昭和56年)6月の住居表示実施により、戸山町ではなく戸山一 - 三丁目となった。かつての戸山町域は、現在の戸山一 - 三丁目の全域にほぼ一致する。ただし、[[2005年]](平成17年)3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と学習院女子大学敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域は旧諏訪町、戸山三丁目西側の明治通り沿線付近一帯(学習院旧正門・[[ユニクロ]]明治通り新宿ステパ店など)は旧西大久保四丁目。
 
 
; 西大久保
 
: 現在の歌舞伎町二丁目と大久保一 - 二丁目の全域・大久保三丁目のほぼ全域(JR線・西武線の敷設部分を除き、この鉄道沿線部分のうち海城学園敷地の一号館より西にあるすべても除く)・新宿七丁目の一部(おおむね、新宿第一保育園より西側の明治通り沿線エリア)・新宿六丁目のごく一部(明治通りの沿線一帯)・戸山三丁目のごく一部(明治通りの沿線一帯)がかつての西大久保の町域である。このエリアのうちおおむね、歌舞伎町二丁目と新宿六丁目が西大久保一丁目、大久保一丁目と新宿七丁目が西大久保二丁目、大久保二丁目が西大久保三丁目、大久保三丁目と戸山三丁目が西大久保四丁目だった。当時、諏訪町(北)・戸塚町一 - 四丁目(西)・角筈一丁目(南・のち一部が歌舞伎町)・東大久保一 - 二丁目(東)・戸山町(東)に隣接。[[1978年]](昭和53年)7月1日、住居表示実施に伴う町名変更により、西大久保一 - 三丁目が消滅。明治通り沿線に一部残った西大久保四丁目も[[1981年]](昭和56年)6月1日に戸山三丁目となり、西大久保は消滅した。今日、新宿区立西大久保公園などにその名を留めている。また、[[2000年]](平成12年)12月に開業した[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]][[東新宿駅]]の建設当時の仮称駅名は、[[大久保駅 (東京都)|大久保駅]]の東側にあるにもかかわらず「西大久保駅」であった。
 
 
; 花園町
 
: 現在の新宿一丁目の町域のうち、新宿区立花園公園の南側に接する道路よりも北側すべてが花園町域。当時、四谷四丁目(東)・市谷冨久町(北)・番衆町(北)・新宿二丁目(西)・新宿一丁目(南)に隣接していた。[[1973年]](昭和48年)1月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。なお、厳密には靖国通り上の「四谷電話局前」信号機付近の道路部分の一部が花園町のまま存続した。[[1983年]](昭和58年)8月1日にこの道路部分は富久町の一部となった。新宿区立の公園(花園公園・花園西公園・花園東公園)などにその名を留めている。[[1995年]](平成7年)、児童数減少により新宿区立四谷第五小学校と第七小学校が統廃合されて誕生した新小学校の名前は花園小学校と命名された。花園の名は付近の[[花園神社]](新宿五丁目)に由来。
 
 
; 番衆町
 
: 現在の新宿五丁目の町域のうち、[[モスバーガー]]新宿五丁目店(靖国通り沿い)よりも東側が当時の番衆町の町域。当時、三光町(西)・東大久保一丁目(北)・新宿二丁目と花園町(南)・市谷冨久町(東)に接していた。[[1978年]](昭和53年)7月、住居表示実施に伴い消滅。
 
 
; 東大久保
 
: 現在の新宿六丁目のほぼ全域(明治通りの沿線一帯を除く)・新宿五丁目のごく一部(新宿六丁目交差点の付近一帯のみ)・新宿七丁目の一部(おおむね、新宿第一保育園より東側すべて)・余丁町のごく一部(抜弁天交差点付近の[[厳嶋神社 (新宿区)|厳嶋神社]]の一角のみ)がかつての東大久保の町域である。このエリアのうちおおむね、新宿七丁目と余丁町と新宿六丁目の一部(おおむね、文化センター通りと旧新宿区立大久保中学校・新宿区立新宿中学校移転予定地に囲まれたエリア)が東大久保二丁目、残りの部分が東大久保一丁目だった。当時、戸山町(北)・西大久保二 - 一丁目(西)・角筈一丁目(南西・のちに歌舞伎町発足時に隣接していた角筈一丁目地区の一部が東大久保一丁目に統合)・三光町(南西)・番衆町(南)・市谷冨久町 - 余丁町 - 若松町(東)に隣接。[[1978年]](昭和53年)7月1日、住居表示実施に伴う町名変更により東大久保一丁目全域と二丁目のほぼ全域が消滅。東大久保二丁目としてわずかに残っていた厳島神社一画は、[[1986年]](昭和61年)11月4日に余丁町の一部となる。今日、新宿区立東大久保公園などにその名を留めている。
 
 
; 坂町
 
: 現在の四谷坂町の全域。当時、市谷本村町(北)・四谷本塩町(東)・四谷三栄町(南)・片町、荒木町(西)に隣接。[[2015年]](平成27年)7月21日、住居表示実施に伴い消滅。
 
 
; 本塩町
 
: 現在の四谷本塩町の全域。市谷本村町(北)・千代田区五番町・六番町(東)・四谷一丁目(南)・四谷坂町・四谷三栄町(南)に隣接。[[2017年]](平成29年)9月19日、住居表示実施に伴い消滅。
 
 
; 淀橋
 
: 現在の西新宿二丁目・四 - 六丁目の一部。おおむね、[[青梅街道]]・公園通り・北通り - 方南通り・[[神田川 (東京都)|神田川]]・渋谷区本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、[[新宿中央公園]]の北側 - 西新宿四郵便局 - 大江戸線[[西新宿五丁目駅]]のA2出口一帯を含み、[[新宿グリーンタワー]]周辺の一画を除く)。当時、柏木二丁目(北)・柏木一丁目(東)・角筈三丁目(南東)・十二社(南)・渋谷区(南西)・中野区(西)に隣接。[[1970年]](昭和45年)4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、神田川に架かる付近の橋(青梅街道と神田川の交差部分)の名称としてのほか、[[ヨドバシカメラ]]・新宿区立淀橋第四小学校などにその名を留めている。
 
 
上記のほか、区画整備や町域統合を目的としない町名変更が戦災[[復興]]時に行われた。いずれも商業的な理由による。
 
 
; 市谷谷町
 
: 谷の文字が重なるため、かつては「市谷町」と誤記されることが多く、周辺には市谷を冠する町名が多いことから地元の取引にも支障を来たしていた。このため[[1952年]](昭和27年)12月に町名が変更され、以後住吉町の一部となった(住吉町は、新宿区発足以前に市谷谷町等の周辺町域が名称変更されて誕生した。したがって、市谷谷町として存続していた町域が[[1952年]](昭和27年)にすべて住吉町に統合された)。一説には、谷が重なる住みにくい町であるとの印象を与えるため、住みやすい町(すみよし町)であることを示す意図があったという。実際付近には谷間や起伏が見られ、これに由来する市谷台町という町名は現在も残っている。
 
 
; 旭町
 
: [[1952年]](昭和27年)12月の町名変更により消滅。以後、全域がそのまま新宿四丁目となる。[[1973年]](昭和48年)1月にその町域全体がそのまま新宿四丁目として住居表示実施。
 
 
; 神楽町
 
: 現在の神楽坂一丁目 - 三丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)に神楽坂一 - 三丁目に改称。
 
 
; 上宮比町(かみみやびちょう)
 
: 現在の神楽坂四丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)改称。上宮比町の名前の由来は、宮比神社を祭る祠の台地の上にあることから。台地の下にあることに因む下宮比町(しもみやびちょう)という町名は付近に残っている。
 
 
; 肴町
 
: 現在の神楽坂五丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)改称。
 
 
; 通寺町
 
: 現在の神楽坂六丁目のほぼ全域。[[1951年]](昭和26年)改称。
 
  
 
== 교통 ==
 
== 교통 ==

2023년 1월 28일 (토) 15:01 판

도쿄도심블.png 국가|[[도쿄도(유라시안유니버스)]]의 지위|특별구
신주쿠구심블.png 신주쿠구
新宿区|Shinjuku City
신주쿠지도.png
Shinjuku City.jpg
국가
일본국기.png 일본국(유라시안유니버스)
소재지
신주쿠구 가부키초 1-4-1
하위 행정구역
94개정
면적
18.23km²
인구
349,385명

개요

신주쿠구는 도쿄도 동부에 위치한 특별구이다.

특성

역사

1947년 요츠야구,우시고메구,요도바시구를 합쳐 만들었다.

신주쿠구 소속의 정(町)

교통

관내 철도역 목록

300

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200

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200

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170

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300

신주쿠역 -

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